絵:黒田征太郎
1939年生まれ。69年長友啓典と共同でK2を設立。イラストレーターとしてポスターや挿し絵で数々の賞を受賞するとともに、壁画制作、ライブペインティングなど幅広いアーティスト活動を展開。www.k-3.co.jp
文:新井敏記
1954年生まれ。85年「スイッチ」創刊、04年「コヨーテ」創刊。著書『人、旅に出る』(講談社)、『モンタナ急行の乗客』(新潮社)。近著として、『SWITCH STORIES 彼らがいた場所』(新潮文庫)、『鏡の荒野』『夏の水先案内人』(スイッチ・パブリッシング)
Essay vol.04
童話「月森の使者」
「おいくらですか?」
「今日はお休みなのでお代はいりません」彼女は笑顔でそう答えた。
「いえ、来れなくなるので取ってください」
そう僕が言うと「はい」と頷いた。五千円札を差し出すと、釣り銭は大きなお菓子の箱から取り出していく。箱はきれいに桐の材で仕切られていて美しい。
一円、五円、十円、五十円、百円と小さく仕切り板があり、お札は蓋のついた箱に入れる。
「美香さんのお父さん手作りです」
高濱さんが言う。「『月森』の開店祝いにと手作りの品」
「お父さんは木工?」
僕が河野さんに訊ねる。
「いえ、ただの会社員」
丁寧な細工に見とれる。中にお守りのように折った千円札一枚があった。
「お客さんが折ってくれたんです」
彼女の中で流れるゆっくりと静かな時間を重ねた。幸福な無名の時間です。
「ここにずっといたいです」
「ずっといてください」
河野さんが真顔でこう続けた。
「コーヒー、お代わりされますか?」
迷ったあげくコーヒーの注文はしなかった。この一杯だけで最初はいい。未練になることを恐れたのかもしれない。外に出ると雨上がりに緑の匂いが甘い香りを包んでいく。僕たちは来た坂道を降りていく。いつまでも扉を開けて、河野さんの手を振ってくれる仕草は、ホットケーキの生地を作るようだと僕は思った。それはさらさらと絵を描く仕草に似ている。何度も振り返るので夕方の群青色の空は少し雨を讃えて来た。
僕は三日前の橙色の月を思い出していた。